大阪暁明館病院伝道所

温かな触れ合いのある伝道所を

大阪暁明館病院伝道所は日本基督教団の伝道所として、1964年に病院内に創立されたプロテスタントの教会です。キリスト教精神にたつ病院は数々ありますが、その中に伝道所(教会)をもつものは非常に珍しく、その点におきましても大阪暁明館病院はとても貴重な存在です。身体の健康だけではなく、心も魂も生き生きと健やかであることを目指す、全人医療に取り組む病院にふさわしいことであると思います。多くの先駆者が祈りを込めてまかれた福音の種が、よき芽を出し、この地に根ざして豊かに成長して行くことを願っています。

ここに来れば心も身体も安心し元気になれる、たとえ病を得ても豊かな気持ちでいられる、身体と心の声を聞いてもらえる、人と人との温かい触れ合いがある、と感じて頂けるような病院伝道所を目指したいと思います。

チャプレン 岸本 光子

礼拝のご案内

毎週水曜日に礼拝を行っています。どなた様も歓迎いたします。どうぞご自由に出席下さいますようご案内申し上げます。

日時:毎週水曜日 11:00~11:30
場所:当院11階礼拝堂

メッセージ

「歴代誌上」(4章9~10節)

ヤベツは兄弟たちの中で最も尊敬されていた。母は、「わたしは苦しんで産んだから」と言って、彼の名をヤベツと呼んだ。また、ヤベツがイスラエルの神に、「どうかわたしを祝福して、わたしの領土を広げ、御手がわたしと共にあって災いからわたしを守り、苦しみを遠ざけてください」と祈ると、神はこの求めを聞き入れられた。

ヤベツの祈り

この祈りは、旧約聖書の中でもあまりなじみのない歴代誌という書物の上巻4章10節に載っています。ヤベツは、聖書でこの箇所にだけ出てくる人物です。
歴代誌は、1章から9章までずっと家系図を載せています。アダムから始まり、誰々の子は誰々…というように、イスラエルの12部族別に延々と人の名を記しています。4章はユダ族の子孫が載っていますが、ここでも同じように淡々と人名が記され、舌がもつれそうな名前もあって、読み進むには忍耐が要ります。ところが、9節に突然ヤベツのことが、ほんの数行ですが書かれています。家系図を黙々と記していた歴史家が、ヤベツの所にきて「あっ、ちょっとこの人については、書いておくべきだ」と不意に付け加えたかのように唐突に記されています。9節「ヤベツは兄弟たちの中で最も尊敬されていた。」とありますが、なぜ、尊敬されていたのでしょうか?ヤベツが他の人たちのように名前だけではなく、記事として残っているのは何故なのでしょう?彼について、わかっている事は、ほんの少しです。まず彼は、恵まれない人生のスタートを切ったようです。彼の母親は、よほどお産が重かったのでしょうか、生まれてきた子に「わたしは苦しんで産んだから」といってヤベツ(痛み)と名づけます。ヘブル語でヤベツ―痛みと名づけられた子は、自分の名前が呼ばれるたびに、自らの人生のスタートが喜ばれ祝されたものではなかった事を、いやでも認識せざるを得ませんでした。名前といえば、私たちが用いている漢字も音を表すだけでなくそれぞれが意味を持っています。ですから、漢字で付けられた名前は、親の願いがこもる意味のある名前だと言えます。たとえ音の響きが美しくても、不吉なことを連想させる漢字が、名前に使われることはまずありません。このヤベツの時代のイスラエルもそうでした。名前が将来を決定すると信じられていましたし、人とその名前は密接に関わっていました。聖書の時代に個人の「名を絶つ」といえば、その人を殺すに等しいことでした。名前は、子供の将来への願い、また予言として受け取られていたのです。そのような中で、ヤベツは「彼は痛みをもたらすであろう」というような名を付けられたのですから、最初のスタートから勝ち目なし、というような人生だったのです。しかし、それにもかかわらず、歴史家はヤベツを特筆すべき人物として記しました。なぜなら、彼はある祈りを祈ったからです。それは、「ヤベツの祈り」として今も受け継がれているごく短い祈りです。

彼はまず、「私を祝福して下さい」と祈ります。しかも、「もしできたら」とか、「ほんの少しで結構ですから」というように遠慮することなく、「私を大いに祝して下さい」と堂々とお願いします。私たちは、つい自分の事を第一番目に 堂々とお願いするのは、何か自己中心的で悪いことのように考えますが、ヤベツは何にもましてこの事を神に求めました。それは、自分が大切で他者がどうなってもいい、ということではなく、自分にはまず神の恵みが、しかも大きい恵みが必要だという自覚によるものでした。人生のスタートでのつまずきを取り返してあまりある神の祝福を、何にもまして、また大いに求めたのです。
第2に彼は、自分の地境の拡大を求めました。地境とは、古い聖書では、国境とも土地とも訳されています。それは縄張りとも、テリトリーとも言い換えることが出来ます。これもまた何と自己本位なお願いでしょうか?自分の縄張りを広げてください、と臆することなく祈るわけです。しかし、そこには神に対する信頼があります。ヤベツには、「こんなこと祈っても、無駄だろう。自分勝手すぎるな」という心は微塵もありませんでした。子供のように信頼しきって、何も戸惑うことなく、また悪びれることもなく、彼は自分に必要なもの全てを求めました。そして、彼はどうなったのでしょう。「この、欲張り者め」と神に叱られたでしょうか。聖書はひと言、「神はこの求めを聞き入れられた」と語ります。

ヤベツの祈りは、旧約聖書の時代の古い祈りではありません。今、現代にも通じる最もストレートで、最も力強い祈りのひとつです。祝福を求め、力をつけ、豊かにされることを、どうか遠慮なさらずに幼子が親を全面的に信頼して必要なものを求めるように祈ってください。神は、昔も今も私たちの願いを聞き入れてくださいます。また、神は私たちが願った以上のものを、思いもかけない方法で与えてくださいます。そして、与えられたものを感謝をもって受け、それを人生の中で最大限に生かすことが出来るように、私達もヤベツのように「御手が私とともにありますように!」と切に願いたいと思います。

祈り

父なる神様、一日の初めに、またその日の勤めを終えて休もうとする時に、ヤベツの祈りを信じる心をもって祈ります。そして、得た祝福や力や富を、自分を喜ばすためだけではなく、どうか他者のためにもこの私を必要としている方のためにも惜しまず用いることができますようにしてください。あなたから与えられた全てのものを用いて、今日も自分の務めを果たす事ができますように。一人一人をあなたが愛し、守り、強めてください。どうか私たちを祝し、いつもともにいて下さい。アーメン 

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